朝9時にオフィスに行く意味とは?
画期的な働きかたを提案・実践することで有名なサイボウズという会社のブログ(「朝9時に出社」って実は楽?──働き方を選べる環境が、社員にとって優しくない理由 | サイボウズ式)を読みました。
「自由を奪われたサラリーマン」の象徴ともいえる「朝9時出社」が実は楽、とはどういうことでしょうか。
「自由」と「責任」は表裏一体
ここで言われているのは、「自由を得るとは、選択を迫られるということでもある」ということです。
> サイボウズってよく「選択肢がいっぱいあっていいですね」と思われるんですけど、実際はそんなに優しい環境ではないんですよ。「選べる」ってことは、「責任が発生する」ってことだから。
サイボウズでは、必ずしも「朝9時に出社」しなくても、いい。
たとえば子どもが急に熱を出したり、交通機関に乱れが出たりしていたら、「今日は在宅で仕事をします」とか「午前中は近所のカフェで仕事をして、午後から出社します」とか、当日に社員が自分で判断していい、とされている。
これって、裏を返せば、毎日毎日、社員一人ひとりが「今日オフィスに行く意味は?」「なぜあなたはオフィスに行くのですか?」という問いに向き合っているのと同じこと。
当然、出社時間や勤務形態をそうやって選べるからといって、「ゆるい」わけでも「甘い」わけでもない。仕事は仕事。求められるタスクはきちんとしたクオリティで期限内に完了する必要があります。そのうえで、今日、オフィスに、この時間に行くことが、果たして意味のあることなのかを常に考え、そしてその答えに責任をもたなければならない。
今の日本の教育には「責任」を取らせる仕組みがない 今の日本で「フツーの」教育を受けて育つと、自ら決断することは決して多くはありません。
そして、もっと少ないのが、自分がくだした決断の責任を問われること。
何を勉強すべきか、そこでの答えが何かは学校や先生が決める。なんで国営社理数に図工家庭科音楽体育は勉強するのにプログラミングや金融工学、あるいは起業論は勉強しないのか?そんな問い自体が、既存の学校教育には存在しません。ヘタをすると大学に入ってから、いや、企業で職を得てからですら、必修授業でカリキュラムがガチガチに固められていたり、研修プログラムが決められていたりして、自ら道を決めることはしなくて済むようになっている。
学習者が「考える」と、教える側にも「責任」が問われる
この現状を憂いて、学校関係者に限らず企業でも人事周りを中心に、個々人が「考える力」を身につけることが大事だ、という声がよく聞かれます。
でも、それってどういうことなのか。
一人ひとりが、真剣に「考える」。ということは、一人ひとりが「決断をくだし、責任を問われる」ということ。そして、教育者としてそこに携わるということは、いつでもふたつの覚悟が要る、ということになる、ということです。
ひとつは、「オマエの言うことを真に受けて決断したらこのザマだ、どうしてくれる」と言われる覚悟。
教育者として、生徒や学生に(企業で管理職、上司としてであれば部下に)「考える力」を求めるのであれば、それをサポートすることが必須。サポートなしに「自分で考えろ」というのは教育でもマネジメントでもない、ただの丸投げです。
であるならば、「何を、どう考えるべきか」「“考えるべきことを考える”とは、どういうことか」をまず、きちんと伝えなければいけない。これができているのか?と問い詰められる覚悟がいります。
もうひとつは、「考えた結果、オマエの言うことには従わないことに決めた。責任は自分でとる。文句はないな?」と言われる覚悟。
「自分で考えて責任も自分でとれ」と言う以上、その範囲内での行動をこちらが制限することはできない。畢竟、学校であれば不登校や退学、企業であれば離職、といった結果も「考える力」「自走力」を求める側は覚悟しておかねばなりません。
そうなるのがイヤであれば、とれる方策は論理的に考えてふたつしかない。「考える力」を求めることをやめるか、相手が「考えた」結果、この人のもとで学びたい、この企業で仕事をしたい、と思えるような魅力ある学びや仕事の環境を整えるか。これができないのであれば、相手に「考える力」を求めても早晩どこかで矛盾が表出、破綻します。
「別にそうする義理も義務もない、けど、あなたのもとで学びたい」 そう言ってもらえる教育ができるように精進しよう、と思います。
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