一斉授業は「お葬式」!?
『教室ファシリテーション 10のアイテム100のステップ』(堀裕嗣著・学事出版)という本を読みました。著者は中学校教員で教室マネジメントや授業の工夫などに関する著書を多数出版されている堀裕嗣氏。
こちらの本の序章に「一斉授業は『お葬式』のようなもの」という指摘があります。
曰く、参列者=生徒・学生は「義理」で出席しているのであって、決して自ら望んでそこにいるわけではない(そんな生徒や学生もいるにはいるかもしれないけれどごく少数)。
そこでは、運が良ければ何かためになる話が聞けるかもしれないが、基本的には面白い時間は過ごせず、ただじっとして話を聞くことしかできないし、自由にトイレに行ったり隣の人と話をしたりもできない。姿勢を変えることすら憚られる。
教師が一方的に講義をして、生徒・学生はそれを聞いてノートにとる、という一斉授業の形式をとる以上、この「お葬式」フォーマットからは逃れられない、というのがこの指摘の主旨です。
さらに、この「お葬式」フォーマットの中で、「読経において、だれも興味を抱いていないお経の読み方を工夫して、参列者を惹き付け、心にしみいるような読経をしようと努力するお坊さん、それが一斉授業だけで子どもたちを惹き付けようとする教師の姿なのです。しかし、そんなことがあり得るでしょうか。構造的にあり得ないのではないでしょうか」という問題提起が続き、最終的には、勿論知識伝達の営みとして教育がある以上は一斉授業、講義を行う時間をゼロにはできないけれど、これからの授業というのは、もっと生徒・学生同士がワイワイと楽しく話をしたりする「結婚式」的なフォーマットをとりいれていくべきではないか、と結ばれています。
教育者として、考えさせられる指摘です。果たして、一斉授業形式で人を惹きつけ、心にしみいるような授業をすることは本当に不可能なのでしょうか。
僕個人はどちらかというと「結婚式」的な授業をすることが圧倒的に多いタイプです。なにしろ、会計ファイナンスという、「ザ・座学」の科目でも受講生同士が話し合い、ディスカッションをするくらいですから(本サイトの「TEACHING」のページでその詳細についてご紹介していますので、よければ合わせてそちらもご笑覧ください)。
また、堀氏のいう「これまでの授業というのはあまりにも『お葬式』形式を当たり前のもの、変えられないものとしてとらえすぎていた」「これからは『結婚式』的な、より具体的にはアクティブラーニングと呼ばれる、生徒・学生が能動的に学びを深める活動の比率を増やしていかねばならない」という意見にも全面的に賛成します。
また、教育理論の観点からも、「もっとアクティブラーニングを」という提案には重要な意義が認められます。『ラーニング・ピラミッド』と呼ばれる学習モデルによれば、受け身の姿勢で講義を聞くだけよりも、一旦学んだ知識を自分なりの言葉で書き出したり、それを他者に教えたりといった能動的な活動を交えて勉強することで学習理解ははるかに深まるとされるからです。
でも。
でも、あえて考えてみたい。本当に一斉授業形式で人を惹きつけ、心にしみいるような授業をすることは不可能なのでしょうか。
たとえば、読書というのはひとつの学習形態です。そして、それはある意味では一方的なものでもあります。読む速度は読者側が自由にできますが、読書の内容は本から読者へと向かう一本道です。読み手の反応によって先のページの内容が自動的に書き換わる、などということはありません。
でも、少なくとも僕にとって読書というのは非常に「アクティブ」な学習体験です。
手元の本を読みながら、そこで語られている内容を自分の考えやそれまでの経験に照らし合わせて「え、ホントにそうか?」「うーん、それは分かる、けどでもこういうふうにも考えられるんじゃ?」などなど、色んな“対話”をアタマのなかでさながらテニスの壁打ち練習のようにひたすら繰り返します。だからハタから見ると、本を読んでいるときの僕はすごく落ち着きがないしブツブツ言ってるし、大変怪しい人物です(笑)。
閑話休題。
読書というフォーマットでこれだけ「アクティブ」な学び方ができるんだから、一斉授業でも原理的には同じことができるはずじゃないか?という思いを僕は捨てきれずにいます。イメージはこうです。
教師がいて講義をしています。
生徒・学生はそれを聞きながら頷いたり、ノートをとったりしています。
このとき、一人ひとりの生徒・学生のアタマのなかで、教師が講義している内容について、「それは本当にそうなのか?なぜそんなことがいえる?」「今言ったこととさっきの説明とは辻褄があわないんじゃないか?いやまて、なるほどこの説明で合点がいった。そういうことか…」など、様々な“対話”がそれぞれに展開されている。
教室のなかで話しているのは教師一人。だからハタから見る限りでは非常に淡々と、静かに授業が展開しているように映る、んだけれど、実は生徒・学生の脳内ではケムリがでるくらい激しく思考がスパークしている。
見果てぬ夢、理想に過ぎないのかもしれませんが、そんな授業をいつかできるようになりたい。『教室ファシリテーション 10のアイテム100のステップ』を読んで、そんな思いに駆られました。
さて、そろそろお仕事にいってきます。
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