“Friendly”と“Friends”は違う
教師と生徒・学生との距離は近いほうがよい、と言われます。

※ 画像はイメージです
生徒や学生からすれば、教師との心理的距離感が近いほうが、たとえば質問などもしやすいし、言われたことを素直に受けとめやすくなる。
事実、学生と教師の距離感が学生のモチベーションや学習効果にどう関係するかを調べたD. Christophelの研究(1990)によると、親しげに接する教師のもとで学ぶ学生は総じて学習に対するモチベーションが高く、その結果、成績もよくなることが実証されています。
ここまでは誰もが直観的に理解できること。僕も、学生と教師の距離感は基本的に近いのに越したことはない、というのには同意します。
だけど、ここに一つ落とし穴があります。
なぜなら、教師は生徒・学生に対して“Friendly”ではあっていいし、あるべきなんだけれど、一方で、決して彼女ら彼らと“Friends”になってはいけないから。
“Friendly”である、というのは接し方、コミュニケーションの問題です。どんな関係性の間柄にあっても、フレンドリーなコミュニケーションはできる。学生-教師間でもできるし、もちろん友達同士、親子間、上司-部下、etc.…いろんな間柄において、フレンドリーなコミュニケーションをすることは可能。
一方で、“Friends”である、というのはそれ自体がひとつの関係性を規定します。A さんと B さんが友人である、といった瞬間、そこには基本的な対等性や相互に対する好意といったものが包含される。
でも、学生と教師は、絶対に「対等」にはなりえません。
なぜなら、そこには常に一方がもう一方の評価をする、という絶対的な権力格差があるから。学生と教師という間柄である以上、構造的に決して「対等」にはなりえない。
加えて、教師が教師として教育の場にいられるのは、彼女ないし彼がなにかしらの知識なり場をつくるスキルなり伝えるべき価値観、世界観なりを持っており、しかも、それは学生がいまだ持ちえておらず、今後授業を通して身につけるべきものだという前提があるから。要は、「教えるべき何か」をもっているからこその教師という責任ある立場を任されているんでしょ、という話。
そんななかで教師のほうが「僕もみんなと変わらない、対等な人間だよ」などと言うとどうなるか。
教育の場がシラけます。
だって、対等な「友人」同士の間柄なんだったら、なぜ一方がもう一方の評価を決められるのか。その矛盾を生徒・学生のほうが直観的に感じとって、一気に教師の言葉に真実味がなくなってしまうからです。
僕の知っている先生のなかにも「私は学生と対等な立場にある。彼らの友人の一人になろうとしている」と言う人達がいます。
でも、当然、その先生方は授業がいつ始まるかをコントロールし、授業中は誰がいつどんなことを喋っていいか、何を考えるべきかをコントロールする。学期末になったらその先生が学生の誰にも相談せずに単独でつくったテストを課して先生の裁量で採点し、その結果に基づいて学生一人ひとりの評価をくだす。場合によってはそれで単位取得不可、落第にさせられる学生もいる。
絶対的な権力をもっているわけです。
そして、その権力は決して「委譲」することはできない。
教師が持つ権限は、彼女ないし彼が教育をなすために付与された責任と表裏一体。それは学生とシェアすることはできないし、もしそんなことをしたらそれは教師としての責任放棄に等しい。
だから、僕は学生のみんなに対してできるかぎり“Friendly”には接しようと心がけていますが、自分が彼女ら彼らの“Friend”だとは絶対に思わないようにしています。それは大いなる勘違いであり、教師として非常に危険な考えだと思うから。
でも、この「生徒・学生と“Friends”になってしまう罠」にハマる先生、というのはたくさんいます。
教師だけが「対等な人間同士、学生とわけへだてなく接する理解ある先生なオレ」に酔ってしまって、結局授業がシラけてしまう。そんなケースを何回も見てきました。僕自身、アクティブラーニングやワークショップ型の授業を得意としており、学生のみんなと近しくすることが多いからこそ、この“Friendly, but NOT friends”という線引きの仕方を意識するようになったともいえます。
僕が学生と“Friends”になるのは、彼女ら彼らが僕の授業をクリアしてから。
僕が課せるかぎりの厳しい課題をクリアして、僕がダイレクトに評価し、彼女ら彼らが評価されるという間柄を終えた「卒業生」たちには、僕が心から敬意をもって接することができるし、もっとゆるやかな人生の先輩後輩といった間柄になれる。そしたら、あとは一対一の人間同士として良き友人になれます。
ということで、今日はこのあたりで。そろそろ仕事に行ってきます。
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